子育てパパの成長日記

10歳の一人息子の子育てをしながら、日々気付いたことを書いていく日記です。脳梗塞を経験して、今は仕事と自宅の往復の中で無趣味の僕が楽しいことを見つけようとしています。

やっぱり脳梗塞の後遺症を感じた瞬間があった

僕は工場勤務。その中で何をどれだけ作るかという工程担当という仕事は工場の花形。

僕は脳梗塞の病後にもかかわらず、その仕事を担当させてもらった。
 
しかし、現実はそんなに甘くなかった。
 
僕はあらゆる資料の作成や全国や海外の営業と折衝、現場の工程進捗の管理、出荷の調整に追われ、目と脳が限界を超えてしまった。
残業は毎日数時間、予算の時期が重なれば土曜日も出勤。資料をUSBメモリに入れて持ち帰ることはザラにあった。今考えれば、コンプライアンス違反だね。
 
僕の考え一つで工場のすべての人が動く。権限が絶大だし、こんなに気持ちの良い仕事は工場には他に無い。でも、それなりの努力と知識と経験と仕事時間が必要な仕事だった。
 
僕は体調不良を度々起こし、周りにまたしても迷惑をかけてしまった。それでも1年は続けたが、交代の告知がきてしまった。
 
現場から「体調不良の工程屋は不安だ」「生産に支障を来たすと」との声が上がり、そんなわけで、グループ長から交代を命じらた。ショックと同時に苦しさからの解放された安堵もあった。自分でも限界を感じていたので、迷惑をかけずに済むという気持ちでいた。
 
違う担当をしながら、班長として班員の安全管理や問題ごとに当たって毎日を過ごしていた。そして、引き継いだ、若手の工程担当者に僕の知っていることを半年以上かけて丁寧に教えた。僕が異動してからも、資料をこっそり見て教えてあげたり間違えをメールで知らせるなどフォローを続けている。これは誰も知らないけど工程担当を急に押し付けられてしまった若手の彼への償いの気持ちでやっている部分もある。今では、立派に一人前になり各営業とやり取りが出来、円滑に工場を回せるようになっていた。僕としてはうれしい限りだった。でも、周囲からは若手の彼が良くできるという評価だけだった。前任者が良く育てたという評価はなく当たり前の反応だと思ったけど、僕はその評価で自分の役目を確実に引き継ぐことができたので満足だった。
 
体調不良になる原因は2つあった。一つは眩しい光に極端に弱くなったこと。晴れた日の屋外はサングラスがないと頭が痛くなったり、めまいがすることが多く、通勤中にも気持ち悪くなって遅刻や欠勤をすることがあった。
 
もう一つはPCを見すぎて目の疲労がたまってくると気持ち悪くなってくることが多くなった。ブログのように画面が動かず書き続けているのは全く平気だが、細かい資料をエクセルで見るときは何百行という一覧から目当てのものを見つけたり、数字を入力したりと画面を上下にスクロールするのが極端に多いと、目がついていかず気持ち悪くなる。これは眼精疲労だと思っていたが違った。
 
今年に入って、体調不良になることがほとんどなく、元気に過ごしていた。しかし昨日、工程表を見ていて、エクセルを上下にスクロールしてあれやこれやと見ていたら、フラ〜っとなった。この感覚は昔を思い出し「ヤバイ」と思ってすぐに画面を見るのをやめた。しばらく、落ち着くまで現場を見に行くふりをして休んだ。画面の動きに目や脳がついていけない、まあ視野狭窄だけどPCを見るのは一点だけだから視界の端が見えなくても普通にできると思っていた。でも、脳梗塞になった以上は、脳は昔と違って確実にダメージを受けていたわけで、目から入ってくる情報があまりに早いとついていけないと知った。
 
今の仕事は、それほどPCにかじりついて画面をスクロールするほどのことはない。異動をさせてくれた上司には今になってとても感謝している。異動の時にも上司は「しばらく異動先でゆっくりして体調重視で頑張って」と言われた。たらだを気遣ってくれての言葉だが、僕は若干左遷的に感じていた。
 
異動先では仲間ともうまく行き、全国の営業ともうまくコミュニケーションが取れている。本当に僕には異動先の水が合っているようだ。異動して今は良かったと思っている。2年後に戻る約束だけれども、それはその時にならないと分からない。戻るのをイヤだと言ってしまっては古巣の人達と険悪になるし、今の仕事が好きだと言えば良いのか?なんてことをもう考えてしまっている。

脳梗塞は完治しても傷痕を残す病気だ。それを知った上で日常生活を過ごしていかなければならない。無理をせず、人生長いんだから体に気を配って生きていこう。